ユネスコは2013年12月4日、アゼルバイジャンのバクーで政府間委員会を開き、日本政府が推薦した「和食 日本人の伝統的な食文化」を無形文化遺産に登録することを決定しました。和食が世界文化遺産になったのです。それには次の4つの理由がありました。
大草覚真流も和食文化を伝承していくことを大きな目的の1つとして活動しています。
『君がため春の野にいでて若菜つむ 我が衣手に雪はふりつつ』
これは平安初期の第58代光孝天皇の有名な御歌です。若菜摘む、つまり食材となる若菜を天皇ご自身が採集されたときお詠みになられたのですね。この光孝天皇は「黒戸の宮」の別名があるほど料理に精通された天皇であったようです。(料理に使う火のすすで部屋の戸が真っ黒だったわけです)
この光孝天皇が、まな板庖丁捌きのルール作りを命じた人物が藤原山蔭(四條中納言藤原朝臣山蔭)です。この時に山蔭卿が定めた式庖丁の作法、つまり右手に庖丁、左手に爼箸を持ち、まな板上の素材には決して素手で触れず、素材の命に感謝し、全身全霊で祷りを捧げつつ料理する式が生まれました。これが今日まで四條流、生間流、そして私ども大草覚真流の庖刀式へと受け継がれてきたのです。
平安初期の公家文化から生まれた庖刀捌きの様式は「源氏物語」や「宇治拾遺物語」からもうかがえるように、貴族社会の中で欠かすことのできない風流で優美な儀式となっていきます。そして時代は貴族の時代から武家の時代へと移ろいで行きます。
室町時代、「大草一族」は足利将軍家の儀式賄職(まかないかた)にありました。「大草流」とは、大草三郎左衛門尉公次の家伝で三河国(現在の愛知県)額田郡大草郷を領し「進士流」と共に幕府の年中行事である初物献上の儀式などをうけもっていたのです。
大草三郎左衛門は何代か続き、後の大草甚五左衛門の時に「大草覚真流」を起します。
大草甚五左衛門が大草覚真流を起こしたのは、幕府が衰退し応仁の乱を皮切りとした下克上が叫ばれた動乱の時代です。この頃には庖刀式はその謹厳さもあって、美濃を含む東海八ヶ国を国盗り往来した武将の必勝を祈願する「戦陣儀式」へと変遷していきます。
この儀式作法は「必勝祈願儀式」「政治的調伏祈祷」「冥道供祈祷」など含めて百四の儀式型を有していました。その中から不必要となった「呪い儀式」二十三の型を取り除いた八十一の型を今に伝承するに至っています。それらの型は洞・船上・滝・炎・庭・幕・殿・仏前・神前・池に分けることができます。またその型は侘び寂びの素朴な静の型から、身心を震わせる動の型まで、ぞれぞれに意味が込められています。
こうして伝承された八十一の型は本来は門外不出のものでした。しかし昭和39年に三代目家元宗伸と家元閣議によって一般入門許可制度が敷かれ、現在では庖丁に生きる者の奉祷儀式としてその伝統を正確に伝えるべく門外不出をあえて解き、当流派より厳選された者によって伝授と錬磨が繰り返されています。